天正11年(1583年)、羽柴秀吉と柴田勝家との戦い「賤ヶ岳の合戦」の際に柴田勝家が本陣を置いたのが玄蕃尾城である。 敦賀市刀根の柳ヶ瀬トンネルの入口で手前を左折。表示に従って進むと駐車できる広場に。そこから約15分ほど登り、視界が開けたところからが「玄蕃尾城」の城域になる。南北は250m、東西は150mのとても広い敷地の中に、南北に連なったいくつかの郭から構成されている。 各郭は土塁と空掘に囲まれており土橋で連結されている。土塁と堀は巧に組み合わされくねくねと曲がって攻めにくい、迷路のような構造になっている。そのため侵入した敵軍に弓矢で防戦できる守りの難い構造だった。 この玄蕃尾城は雑木や下草が綺麗に刈り取られ、400年がたった今も大変よい状態で残っているため、当時の背景を思う存分堪能することが出来る。 日本で唯一の完成された山城と言われている玄蕃尾城。 城跡にたたずみ、立ち耳を澄ませば当事の背景がすぐ目の前に浮かんでくる。 この立派な城で一度も戦うことなく敗れた柴田勝家の無念、戦国大名の哀しい定めなどを思うと胸がつまる。
11月に解禁となり、これからがシーズン本番となる「越前がに」。黄色のタグが目印のこの越前がにを求めて、福井県を訪れる人はたくさんいる。福井県内では4つの漁港で水揚げされていて、そのうちのひとつが敦賀港である。 漁港が近いので鮮度はお墨付き。日本海の荒波で育ったカニは身がぎゅっと締まっていて、味も濃厚。 あつあつのゆでガニや、焼がに、カニ刺し、どれをとっても最高。 福井県の越前ズワイガニ漁は1500年代安土桃山時代に始まったとされ、日本で最も古いと考えられている。また、漁獲された越前ガニの鮮度保持や調理方法などについて長い歴史をもち、今に受け継がれている。 敦賀市内でも、新鮮なカニを購入できる魚市場はもちろん、民宿やお食事処でも新鮮なカニ料理を出してくれるお食事処など、今の時期はどこのお店もかにやふぐに力を入れている。 いよいよ冬本番の敦賀へ、是非一度カニを食べに足を運んでいただきたい。
「月清し遊行のもてる砂のうえ」(氣比神宮) 「名月や北國日和定なき」(氣比神宮) 「寂しさや須磨にかちたる濱の秋」(色の浜) 「波の間や小貝にまじる萩の塵」(色の浜) 「おくのほそ道」には、芭蕉の句が50句あり、このうち敦賀では上記の4句が詠まれている。多くの句を残した敦賀の地へ、今もたくさんの人々が「ほそ道」を想いながら訪れる。 芭蕉の敦賀の地での滞在は、元禄2年8月14日から 16日のこと。芭蕉にとって、この約160日間の旅は月を見ることが一つの目的であったが、とりわけ敦賀での「中秋の名月」は楽しみにしていたようである。敦賀での月は、あいにくの雨により見ることができなかったが「芭蕉翁月夜十五句」と題して、福井から敦賀までを詠んだ「月の十五句」が残されている。 ところがこの「月の十五句」、実際には十四句しか記載が無く、残りの一句は幻の一句とされている。 そして、現存する文献などの資料から、この未記載の一句は敦賀での句ではないかといわれてる。芭蕉の「幻の一句」が、この敦賀の地に眠っているのだ。 芭蕉ゆかりの地は今も大切に保存され、当時の面影を今に伝えている。 芭蕉の旅から約300年の時を経た今、敦賀の中秋の名月(本年は10月3日(土))の下で俳人芭蕉の気持ちに想いを馳せてみるのも一興、敦賀での思い出を幻の一句として詠んでみてはいかがだろうか。
北陸道の数あるパーキングエリアの中でも、とりたてて大きなものでもなく、むしろかなり小さな部類に入る、杉津パーキングエリア。 ところが、その眺望と一風変わった展望台から、恋人たちの間でちょっとした注目スポットとなり、昨年12月「恋人の聖地」としても認定された。 敦賀ICから、ひたすら山間を縫うように走る北陸道下り線は、 長大なトンネルを経て、杉津パーキングエリアの地点で海抜約300m程度まで一気に登りつめる。 眼下に広がる壮大な敦賀湾。夕暮れ時、刻々と表情を変えるその姿には ロマンチックなムードが漂う。長旅の疲れを癒すには最高の眺望だ。 「ゆうひのアトリエ」と名付けられた展望台には、メッセージが添えられた鍵が数多くかけられている。「杉津の絶景に、二人の誓いをロックする鍵」。恋人たちは、その鍵に想いを託していく。
キーンと張り詰めた冬の夜空、オリオン座はすでに高く静かにまたたいている。町の喧騒が静まり始める頃、ここ本町商店街では、ポツポツと屋台の赤提灯が灯りはじめた。やわらかに立ち昇る湯気には、ほのかな麺の香りが漂う。 昭和28年、たった一軒の屋台から始まった敦賀ラーメンは、その後次々と増え、 多くの人に親しまれるようになっていったという。 敦賀ラーメンに魅せられた人々が、思い思いの屋台へと足を運ぶ。仕事帰りのサラリーマンや、遠方からの旅行を楽しむ老夫婦、20年来の常連客など、顔ぶれは多彩だ。「取材?こんな遅くに大変やなぁ」そう言いながら手際よく麺をゆで上げるご主人。 出来上がったのは、シンプルにチャーシューが乗ったラーメン。深いスープの香りが食欲をそそる。オーソドックスだからこそ、どこか懐かしいような、そんな安心感がある。見ず知らずのお客どうしが屋台のご主人を交え、一杯のラーメンをすすりながら他愛ない話に花を咲かせる。まさに「一期一会」。アツアツのラーメンを食べたせいか、そんなささやかな温もりが心地良かった。 現在の敦賀ラーメンは店舗や屋台、そして中華料理店などでさまざまな味が楽しめる。屋台は曜日によって出店している店が変わるので、事前に確認してから出かける事をお勧めする。
朝夕の冷えこみも厳しくなり、書院庭園の紅葉をあてこんでとある休日の昼下がり、西福寺を尋ねてみた。他にも西福寺の紅葉を見に来たのだろう、県内外からの観光客の姿もちらほら。 真っ赤に葉を染めたカエデの木や、まさに「黄金色」一色のイチョウに、晩秋の訪れを感じる。どっしりとかまえた三門をくぐり、寺務所の大玄関へ向かう。 ――書院庭園は、その先だ。 庭園の写真を撮りたい旨住職に伝えると、住職は快く庭園へ案内してくださった。「今日は少し遅かったですね。朝のように日が入るときは、紅葉の赤がとても映えるのですよ。」と目を細める住職。確かに、日が少しかたむいて庭園は山の影になっている。 この書院庭園は、江戸中期の作で、極楽浄土を地上に表現したいとされる。 とくに、紅葉のそれは、まるで別世界とのこと。背に迫る山を借景としたその庭は、赤や黄色に色付いた木々が生い茂り、閑寂の趣が深い。日の差しこんだ時の庭園はどれほどの美しさなのだろう。
金ケ崎から敦賀港線の線路沿いにしばらく歩くと、踏切の先に参道がある。ここ、永嚴寺(ようごんじ)は、若狭三十三観音霊場の、第一番札所でもある。 山門の前を横切る旧8号線の築堤、その下をくぐるトンネルは間近に迫った天筒山と、生い茂った木々も相まって少しミステリアスな雰囲気だ。
金ヶ崎に広がるコンテナヤードに汽笛が響き渡り、ディーゼル機関車の力強い唸りが聞こえてくる。敦賀港駅を訪れると、ちょうど貨物列車が出発したところだった。(現在は使われておりません) 敦賀港駅は当初金ヶ崎駅と呼ばれていた。 明治末期から昭和初期にかけて欧亜国際列車が運行され、ここからウラジオストク航路に乗り継ぎ、遥か欧州を目指す人や荷物で賑わっていた場所。そんな敷地の一角にひっそりとランプ小屋は建っていた。 ランプ小屋は、列車の灯火に使用されるカンテラの燃料を保管する油庫としてかつては主要な駅に一般的に存在したもの。しかし光源が電灯に変わるなど、 その用途が消滅すると、駅の増改築などで急速にその姿を消してしまったようである。敦賀港駅のランプ小屋は、現在も駅の倉庫として使用されているようだ。 近代のコンクリートブロックやスレート造のものとは違い、丁寧に積み上げられたレンガや開口部のアーチなどは、独特の趣があって美しい。そのレンガを良く見ると、ところどころに何か四角い小さな文字が刻まれていることに気付く。説明によれば、レンガを作った職人のサインのようなものだそうだ。金ヶ崎を訪れたら少し足を止めて、百数十年前の彼らの仕事に見入ってみるのも楽しい。 ランプ小屋は駅の敷地内にあるため立ち入ることはできないが、金崎宮前の駐車場から間近にその姿を見ることができる。
市街地の一角に、ひと際目立つ大鳥居をくぐると、そこには街の喧騒とはかけ離れたゆったりとした時が流れていた。石灯籠が並ぶ参道を抜けると、手水場の片隅に小さな湧水を見つけた。 「長命水」(千三百年の昔、ここ氣比神宮の造営中突然ひとつの水場が湧き出した)とある。 提げていたカメラを置き、早速ひと口飲んでみた。水の冷たさが散策で乾いた喉に沁みる。かつてこの地を訪れた最澄や空海も、ここで喉を潤したのだろうか。 今もなお湧水を滴らせる亀の石像や、静かにその水場を覆う草木、そして忘れ去られたかのように境内の隅で沈黙をきめ込む狛犬。実は彼らは、そのかつての偉人たちとも遭遇していたのではないだろうか。苔むした水場を眺めながら、そんなあるはずもない想像をめぐらせる。 氣比神宮を訪れたら、ひらけた参道から少し寄道して隅の茂みにも気を留めたいものだ。